鴻巣友季子の翻訳2016年09月04日 23:54

フェイスブック上でトーマス・H・クックのミステリが紹介され、おもしろそうなので読みたいと思ったが、一番のお勧めの「緋色の記憶」は訳者が鴻巣友季子だったので、鴻巣友季子が苦手な私はそれを避け、違う訳者の「沼地の記憶」をまず読む。
しかし、ファイスブック上では「緋色の記憶」のその鴻巣友季子の翻訳が絶賛されているのを知り、好奇心から、それもトライすることにした。
実は、3年ぐらい前に彼女の訳の「嵐が丘」を読み、その訳文に辟易としたこと、ネットで同じように彼女の翻訳を嫌う人がたくさんいて、中には誤訳を指摘する人もいるということを私のフェイスブック上に記事として載せたことがある。実際、「嵐が丘・鴻巣友季子・翻訳」とネットで検索をかければ、今でもたくさんの怒りの言葉が出現するのだ。
 しかし、その「緋色の記憶」を読了し、絶賛されているとおりの見事な翻訳なので驚いた。彼女の「嵐が丘」は処分してしまったらしく比べようがないのだが、とにかく日本語の格が違っている。これはどういうことなのか。ご本人に詳しく聞いてみたいものである。
 さて、肝心の「緋色の記憶」の感想。原題は「チャタム校事件」というようだが、詩的なうまい題をつけたものだ。アメリカの片田舎にある高校の厳格な校長の一人息子の主人公、思春期の心豊かな青年が、新しく赴任してきた美しい美術の先生に一目で惹かれ、あこがれの気持ちを持つところから物語は始まる。バス停に父親と迎えに出ていてバスから降りてくるその美しい先生を迎えるところの描写が実に美しい。これをもって「緋色の記憶」ということだろうか。
「沼地の記憶」と同じように現代と過去がいりまじって物語は展開し、過去のシーンでは法廷での証言などが出てくるところも全く同じパターンだが、「沼地の記憶」よりはるかに分かりやすい。物語自体も「緋色の記憶」のほうが共感できるところが多かった。
本もおもしろかったけれども、一番の収穫は鴻巣友季子を見直したことかな。

東野圭吾2016年09月19日 12:45

70歳を過ぎ、そろそろ自分の身の回りの整理を始めなくてはならないと思いながらも無駄な物が増えていく毎日である。しかし、その心がけの一つ、せめて読まない書籍の整理を始めることにした。地震対策にも配慮し、背の高い二つの本棚を縦に半分のサイズの本棚に買い替え、必然的に元の半分の書籍を処分するようにしたのである。 電車の中などで読むのには最適の東野圭吾の文庫本が13も出てきた。これでも彼の全著作の6分の1ぐらいだろうか。はたしてこれを残すべきか、否か、その決定をするためにずいぶん昔に詠んだ「悪意」にトライしてみる。まったく忘れていた話だが、殺人の動機にちょっと無理があるなあ、というようなことを途中からちょっと思い出してくる。しかしミステリとして、まあまあ期待に応えてくれる作品だった。とっておこうかな、処分しようかな……

渋谷のワイン会に行くのは大変!2016年09月26日 22:40

Diony恒例のワイン試飲会、おいしいワインをチーズやサラミなどと味わうことができる貴重な会に参加した。おいしいワインだけでなく、参加者の顔ぶれも実に豊富。
飛行機のパイロット、フランス語翻訳者、整形外科のお医者様、イラストレーター、ダンサー等々、実に豊かな顔ぶれがそろってワイワイガヤガヤ…
それにしても渋谷の分かりにくさは相変わらずだ。この混乱、一体いつまで続くのだろう。特に井の頭線から明治通りを並木橋方面に歩き、右側の川を渡るところにある会場に行くのは大変だ。帰りは新宿までJRを利用し遠回りして帰宅した。

「ハドソン川の奇跡」2016年09月29日 23:26

ハドソン川に不時着した飛行機のニュースは、前年の冬、友人とNYに行き、映画と同じような極寒のハドソン川をバックにとった写真もあり、当時すごく印象に残ったことをよく覚えている。乗員・乗客全員が無事に生還したことから、ニューヨーク州知事がこの件を「ハドソン川の奇跡」と呼び称賛したそうだが、それが映画になって、タイトルはまさに「ハドソン川の奇跡」しかないと思いきや、原題は主役の機長Chesley "Sully" Sullenbergerの通称「Sully」…これが意外に思ったが、それだけ、彼の名前がアメリカ人に浸透しているのだろうか。
映画は、主に機長の心の動きにそって過去・現在が交錯して進む。すんでのところでの大惨事の悪夢から始まり、川に不時着したことが正しいことかどうか、近くの空港に不時着する余裕があったのではないか、という事故調査委員会の追及に翻弄されたりする一人の人間としての「Sully」の内面を中心にスリリングな不時着の実態が描かれる。タイトルに込めたクリント・イーストウットのねらいはそんなところかなあ、と思った。トム・ハンクスはまたもや役にピッタリだ、というより、実物に風貌も似せて成りきっている。